2010年8月30日

サライ

故郷があるっていい事なのか、単なるしがらみなのか、
迷う時期もあったけど、今は素直に故郷を愛していると言える。
故郷の輝きは、フロンティアよりも眩しい。

この曲は、唄も歌詞も本当にいいよね。

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「サライ」
作詞 谷村 新司
作曲 弾厚作(加山雄三)

遠い夢 すてきれずに 故郷をすてた
穏やかな 春の陽射しが ゆれる 小さな駅舎
別離より悲しみより 憧憬はつよく
淋しさと 背中あわせの ひとりきりの旅立ち

動き始めた汽車の窓辺を
流れてゆく 景色だけを じっと見ていた
サクラ吹雪の サライの空は
哀しい程 青く澄んで 胸が震えた

恋をして 恋に破れ 眠れずに過ごす
アパートの窓ガラス越し 見てた 夜空の星
この街で 夢追うなら もう少し強く
ならなれりゃ 時の流れに 負けてしまいそうで

動き始めた 朝の街角
人の群れに 埋もれながら 空を見上げた
サクラ吹雪の サライの空へ
流れてゆく 白い雲に 胸が震えた

離れれば 離れる程 なおさらにつのる
この想い 忘れられずに ひらく 古いアルバム
若い日の父と母に 包まれて過ぎた
やわらかな 日々の暮らしを なぞりながら生きる

まぶたとじれば 浮かぶ景色が
迷いながら いつか帰る 愛の故郷
サクラ吹雪の サライの空へ
いつ帰る その時まで 夢はすてない

まぶたとじれば 浮かぶ景色が
迷いながら いつか帰る 愛の故郷
サクラ吹雪の サライの空へ
いつか帰る いつか帰る きっと帰るから

2010年8月19日

roots

ソフトバンクグループの創業者

孫正義

誰もが知っている実業家
佐賀県出身である

彼の数々の成功秘話はたくさんのメディアで取り上げられているため、
ここに記載する必要はないだろう。
今年、彼の会社は創業30周年を迎えるそうだ。

彼の人生は薔薇色に見えるかも知れないが、実際は戦いと血の色である。
彼はいくつもの危機を乗り越えてきた泥まみれの覇者
これほど怖いもの知らずの、大博打が打てる天才はいない
彼は常に未来を造っている

そんな彼は自身の生い立ちをほとんど語らない
いつも彼の武勇伝は渡米する高校時代ぐらいから始まるのである

彼がなぜ成功したのか、なぜ成功しなければならなかったのか、
彼を大きくしたものは何か、彼の根源にあるものは、
2010年6月25日(金) 第30回定時株主総会の終了後に、
本人の口から「ソフトバンク新30年ビジョン発表会」と共に語られた。

--(抜粋)-------------------------------------
最後に、見慣れないおばちゃんの写真。

私にとっては大切な大切な人物であります。
14歳で日本に渡ってきた。14歳で結婚しました。相手は37歳。私のおじいさん。
彼女は私のおばあちゃんであります。

途中で戦争も体験しました。
生きていくのがやっと。
泥水をすすって、飢えから子どもたちを守って、せいいっぱいという状況。

日本にいて、韓国の国籍で、言葉もカタコトで、知り合いも頼る人もいなくて、14歳で渡ってきた。
つらいですよね。わからない何も。
14歳ってまだ娘ですよ。中学生です。
一人で見知らぬ国にやってきた。つらかったと思います。

私の父、私の母、父はもう中学のときに家族を経済的に支えて、一生懸命仕事をしました。
大変苦しい苦しい生活の中で這い上がってきて、ヤミの焼酎をつくった。
豚を育てた。なんとか生きてきた。

そんな中で私が生まれた。1957年。
私が生まれた頃にはすでに少しは生きていける、トタン屋根のボロボロの部落の家に住んでましたけどね。

私の戸籍は佐賀県鳥栖市五軒道路無番地と書いてある。
無番地ならわざわざ無番地って書かなきゃいいのに。
不法住居ですから。自分たちの土地ではなくて、国鉄の線路脇の空き地にトタン屋根で板を貼って住んでるわけですから、正式に戸籍を認めるわけにはいかない。
ということだったんだと思います。
無番地で生まれました。

私が今でも覚えていますが、3、4歳の頃、おばあちゃん可愛がってくれました。毎日散歩につれていってくれた。
父と母は一生懸命に、本当に一生懸命に仕事しておりましたので、いつも留守ですね。
私を子守してくれたのはおばあちゃん。毎日おばあちゃんが「正義や、散歩いくぞー!」
僕は喜んでおばあちゃんについていく。

おばあちゃんが散歩行くぞーというときはリヤカーですね。
リヤカーに乗って、しがみついていく。
あんまり言いたくないですが、今でも覚えている。
リヤカーが黒っぽいんですね。すべるんです、ぬるぬるして。
そのリヤカーはドラム缶を半分に切って3つ4つ積んであって、そこに飼っている豚のえさを、残飯をですね、鳥栖の駅前の近所の食堂から残飯をもらって、それを集めて豚のえさにして育ててる。

私は小さいからわからない。ただリヤカーに乗って楽しく行ける。
ただなんとなくぬるぬるして、なんか腐ったような臭いがして、雨上がりのでこぼこ道で、水溜りですべったら落ちて死ぬなあ、と思いながら、「しっかりつかまっとけよー」ついていってるわけです。

おばあちゃん大好きでした。
その日は忘れられない。

大人になって今見るとリヤカーなんて乗りたくない。恥ずかしい。
でもその頃は子どもだから別につらいということはなくて、楽しかった。

そのあと少し物心ついてくると、あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになった。
なぜ嫌いかといったら、おばあちゃんイコールキムチ、キムチイコール韓国。
そうするとそれにまつわるさまざまな、生きていくのにつらいことがあるんですよね。
あまり例をあげたくないけど。やっぱりつらいこといっぱいある。

そうするとやっぱり息を潜めるように、隠れるようにして日本名で生きているわけですね。
ですからなおさらそれがコンプレックスになってる。

あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになった。
避けて通る。そういうふうになった。

そんなときに、私の父が吐血をして入院した。
家族の危機ですね。
1歳年上の兄は高校中退して、泣き暮らしている母を支えて、家計の収入を支えて、父の入院費、家計のサポートをする母も一生懸命仕事する。

僕にとってはもう突然降って湧いたような家族の危機ですね。
なんとしても這い上がらないといけない。どうやって這い上がるか。

私は事業家になろうと、そのときに腹をくくったんですね。

一時的な解決策ではなくて、家族を支えられる事業を興すぞ。
中学生のときに腹をくくりました。

そのとき、「竜馬がゆく」を読んだんですね。
目からウロコでした。
いじいじぐずぐず言ってた自分が情けない。
人種だとかなんだとか、そういうつまんないことで悩んでたということ自体が、ちっぽけな人間だったなと気づいた。

そこで事業家を志して、アメリカに行こう、アメリカに渡ろう。
言ってみれば脱藩のようなものだ。

母は泣きました。友だちも先生も、全員とめました。
ばあちゃんが心配するぞ、行くな。泣いて泣いて泣いて泣いて暮らしました。
母は毎日泣いてました。
「行くな、そんなわけのわからない怖いところに行くな。行ったら帰ってこれんようになる」
僕は振り切って、俺はアメリカに行って、事業家になる何かタマを見つけてくる。
そこで何かつかんで、日本に帰ってきて事業を興す。
絶対に家族を支えてみせる。

親戚のおじさんとかおばちゃんには言われました。イトコにも言われました。
「正義、お前はなんて冷たいヤツだ! 父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのところでさ迷ってるときに、お前の父を置いて、一人でアメリカに行くんか。お前のエゴのために行くんか」
言われました。

私は言い返しました。

「そんなんじゃない、家族を支えたいから行くんだ。
もうひとつついでに言っとくなら、今まで自分が悩んできた国籍だとか、人種だとか、同じように悩んでいる人たちがいっぱいおる。
俺は立派な事業家になってみせて、孫正義の名前で、みんな人間は一緒だ。証明してみせる!」

心に誓ったんです。


その決意をしてから、ばあちゃんに言いました。
ばあちゃんごめんね、あんなに優しくしてくれて愛してくれたばあちゃんを、俺は大嫌いだと言ってしまった。

ばあちゃん、俺を韓国に連れて行ってくれ。
アメリカに行く前に、自分が忌み嫌ってきた先祖の国を見てみたい。韓国につれていってくれ。

ばあちゃんと一緒に二人で二週間ぐらい韓国をまわりました。
ばあちゃん喜んでくれた。
「正義、一緒に韓国いってくれるか。やっと韓国に行ってみようという気になったと。」

二人だけで韓国に渡りました。
小さな村で電気もきてない。やせ細った土地だから人間もちっちゃい。ローソクの中で迎える食卓。
でもみんな、暗いローソクの中で、真っ黒い歯がニッコリ笑ってましたよ。
一生懸命迎えてくれた。
ばあちゃんは僕らの古着のツギハギのズボンだとかセーターを、親戚のイトコのみんなかき集めて大きな風呂敷に詰めて、繕いだらけの服を持っていって、その村の子どもたちにお土産として渡した。

もらう子どもたちは満面の笑みで「ありがとう。日本の洋服はきれいだ」
ばあちゃんからもらうものを受け取って、ばあちゃんのそのときの笑顔が忘れられない。

人様のおかげだ。どんなに苦しいことがあっても、どんなに辛いことがあっても、誰かが助けてくれた。
人様のおかげだ。だから絶対人を恨んだらいかんばい。人様のおかげやけん。


私は会社をはじめて2年で大病をわずらって入院しました。
もう死ぬと思いました。

お金じゃない。地位でも名誉でもない。
ばあちゃんがやったような喜んでもらえる、ボロキレでもよろこんでもらえる。
そういうことに貢献できたら幸せだ。

入院したときになおさら思いました。つくづく思いました。


会ったこともない、見たこともない、名前も知らない、カンボジアかどっかの小さな女の子が、泥んこの顔で、りんご1個もらって「ありがとう」。
何か我々ができることをして、誰に感謝してもいいかわからない状況で、心の中で「ありがとう」と。
そういう貢献できれば幸せだ。

名前も知らない、たった一人の子どもに喜んでもらいたい。

がんばります。よろしくお願いします。

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by 孫 正義